ISBN:4003260538 文庫 平井 肇 岩波書店 1965/01 ¥315

床屋の主人が朝パンにバターを塗っていると中から切り落とされた鼻がひょっこりあらわれる。しかもそれが得意先の紳士の鼻だと知ってもう青くなる。これが『鼻』のいかにもシュールレアリスティックな冒頭である。

19世紀露文の主調と問えば写実主義の隆盛という答えがかえってくるのが尋常ではなかろうか。写実主義といったってこの現実というやつが何であるのかの理解に関わってくるのであって、たとえば不運ばかりの人生やすべてが万事首尾よくすすむ、なんてことはありそうもないから何か現実ばなれしているなあ、という茫漠とした感性に基づいて仕事はなされているわけである。だからリアリズムを名乗るならラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺すに至る経緯やエンマことボヴァリー夫人の服毒自殺は、読者作家の生活実感として「まあ、あるよな」と思わせるものでないとまずい。

 むろん主調は主調、傍流も異端も珍品も当然のごとくあるに決まっている。その中でも珍品中の珍品といえばそうで他方ゴーゴリの真骨頂といってもよかろう作品が『鼻』であると声を大にして主調したい。一言で言ってシュルレアリスティックである。シュルレアリスム文学には二つの代表的な手法があるけれども、『鼻』は要するに意外なものともののと組み合わせで斬新なイメージを創出する方法をそのまま用いているといってよい。冒頭からその鮮烈なイメージは読者わたくしを引きつけてやまないがその鮮烈さは物語の展開とともに磨きがかかっていく。特に鼻をなくした男が教会で出会うさる人物との会談は映像的に絶品である。

 写実主義を現実らしさを描く態度とみなすなら、『鼻』は断じて写実主義文学とはいえない。パンから鼻が出てくるにしたって相応の文脈が提示されていれば読者諸賢の一人たるわたくしも「まあ、あるよな」ですむ。しかしそんな説明はてんでない。床屋の主人はいつ鼻を切り落としたのか、どうやって鼻が紳士にもどったのか、そもそも鼻のありかがころころかわるのはなぜか、といった説明は完全に放棄されている。不条理といってもよかろう。リアリティゼロのリアリズムというのでは困る。だからこれは写実主義文学とはいいづらい。

 しかしまた幻想小説と呼ぶのもふさわしくない。というのは幻想には幻想小説のルールというのがあって、生前の恨みをはらそうとする幽霊がでてくる(『外套』はその手の作品である)とか民間伝承などで定着した妖精が主人公だとか(トールキンの『指輪物語』がよい例だろう)けっこう枠組みとしてはお定まりである。そしてそのルールにのとって文学ゲームを物語として楽しむのである。それを読者としても体得しているから別段その現実離れに意外さはないけれど、そうしたルールを巧みに逸脱し不安におとしていれてくれるのがこの『鼻』である。だとすればやはり幻想小説ともいいがたい。

 そこでわたくしとしてはシュールレアリスティックだといいたいわけである。別に名前なんて何だっていいという向きもあろうが、重要なのは名札ではない。一つは先にも述べた通りディペイズマン(意外なもの同士の組み合わせ)を効果的に用いた映像を生み出していることにある。他方無意識を描写することを試みているなんて言う気はさらさらない。そうではなく物語構成のルール違反を認めたいのである。述べたように『鼻』には事件の顛末について説明らしい説明がない。次々起こる奇天烈な事態に読者はひたすら泡を食らうしかなかったりする。この洒脱さが『鼻』のもう一つの魅力だと思う。だったら別にシュールと呼ばなくても…という声を自分でささやいてみることになった。が、今更取り消すのも気が引ける。ともあれ、『鼻』が構成、内容ともに19世紀ロシア文学においてまれに見る前衛的な珍品であるとはいってよかろう。
ISBN:4003251148 文庫 渡辺 守章 岩波書店 1993/02 ¥798

 よりによってラシーヌの感想文なんぞ書かんとしている自分に一抹のやましさを覚えざるをえないのだがそのわけはこのいかにもおフランスな悲劇がどうにもこうにも馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいと一方で思っていたりするし現にそう思っているからである。横恋慕のもつれで四つ死体が出る始末の『アンドロマック』に、やっぱり痴情のもつれでしかも近親相姦の香りがげに漂うばかりの『フェードル』は義理の息子に恋したヒロインが言いよったところ当然拒絶されるわけで、旦那に露見したらどうしようかとあわてふたいていると侍女が勝手にご子息が奥方様を手篭めになさろうとなどといいくさる、とすれば旦那としては立腹するので息子を追放してしまうのだが云々。なんというかこう、これだけ書くだけだとやっぱりしらけるなあとあらためて思うのだが、どちらも恋情で身を滅ぼす、いやラシーヌのためにも身を滅ぼさんばかりな<宿命の>恋が主題に取り上げているといったほうが紳士的なのであろう。

 そもそもこのしらける感じがどこから来るかといえば恋というのは悲劇にもなることはなるけれど同時に喜劇の題材にもなる点に存しているのじゃなかろうか。人の恋路のすったもんだを皮肉って笑い飛ばしたり、愚かしいと思いながら暖かみのある視線でなりゆきみつめる野次馬根性が恋の喜劇の楽しみというものである。事実沙翁も『ロミオとジュリエット』『アントニーとクレオパトラ』をのぞけばもっぱら喜劇の主題に惚れた腫れたの事件どもを扱っているではないか。笑いの素材になるものを悲劇の形式で仕立てるとあっては涙しようと思えども笑いの余韻で口がひきつるというものだ。

 されどラシーヌはあくまで悲劇と来ている。悲劇たるからには主人公が死に至る。その死の原因が恋情である。フェードルは義理の息子イポリットに対する己が心情を恥ずべきものと知っていてそれを押しとどめんとあれこれ抗う、とこういうたぐいの葛藤は恐るべき予言の成就を避けんとするオイディプスに似ていないこともない。言うまでなくオイディプスの努力むなしく父親殺しと母子相姦は現実のものとなっていたのだが、これを外部からの侵入、非日常の襲撃とみてとるのはギリシャ悲劇おなじみの理解である。だからしてオイディプスの災いは彼の日々の行為、心情の結果などではなく、むしろそれらとは無関係に彼を襲い、平凡な生活をかき乱す異常な出来事として登場するのである。

 さてフェードルの恋の情念は、オイディプスにふりかかる運命同様、彼女に襲いかかる。彼女は無論己のふるまいや意志の結果として息子に恋慕したのではない。むしろそれを回避しようとさまざまな手だてを講じても回避しきれないものとして、その恋はフェードルを打ち砕く。ラシーヌにあって恋情はいかなる人為も無にしてしまう運命の侵入なのだ。運命を前にしてもフェードルは無益な抵抗をやめることがない。彼女は愛を語るや己のおぞましさを痛罵する。恋情と規範、運命と人為のはざまにあってフェードルの心はめまぐるしく変化し、どこまでも逃れられない結末を避けようと試みる。この姿がおそれとわれみを生じさせる理由であろう。しかしそればかりでなくふたつの情念の間で生じる葛藤によって、その心にきわめて激しい振幅を起こさせる方法はラシーヌ作品にしばしば見受けられるタイプの心理描写である。そしてラシーヌの見事さはその精緻な筆致をこそ筆頭にあげてよかろう。

 もしラシーヌに失笑を感ずる、つまり喜劇的なものとして受け入れるなら、フェードルの心情もまた喜劇を構成する要素である。喜劇的なるものが生じさせるのは滑稽味である。とすれば、フェードルの滑稽味は運命ならざるものをそうだと思いなしてしまう愚かさ故の滑稽味とでもいえようか。登場人物の名前は失念してしまったが、『ブリタニキュス』というネロの治下にあるローマを舞台にした悲劇の中で「(恋に抗えないなどというのは)少し抵抗を試みられただけですぐおやめになるからでは?人は恋をしようとしなければ、恋せずともいられるものです」とラシーヌは語らせている。恋を意欲しないなら、そして制しようとするならばそれ十分は可能なことである。こうした恋情の理解に立てば、フェードルもまたカタストロフを回避することができたのに、それを運命の名の下に呼び寄せたといえる。いわば自ら災いの芽を摘みそこねたに過ぎない。とはいえラシーヌは恋を運命とみなし、それによって作品を作り上げた。そこに仮になにかしらの滑稽さが生じるとすれば、それはラシーヌの作家のとして力量に起因するよりも、題材に対する読者観客の態度によることである。
ISBN:4783727317 単行本 大平 具彦 思潮社 1988/05 ¥3,990

[内容紹介]トリスタン・ツァラの主要な詩集10冊をダダ、シュルレアリスムを経て晩年に至るまでを納めた詩集。日本語で読めるツァラ詩集の中では現在最も網羅的である。

 ツァラは母語ルーマニア語ではなく作品のほぼ全てを第二言語のフランス語で残したという。それゆえ私には、翻訳で詩を読むことにまつわりつく不可知の思い、作品は私に開示されず日本語によって隔てられているという思いを感じざるを得ない。

ましてツァラはシンタックスを破壊する詩空間を形成した。大平氏によれば「異質」であるというツァラのフランス語をまさにそのように感じ取るためには「標準的」フランス語に熟達しなければ不可能だ。よしそれが作品へ向かう唯一の道ではないにせよ、詩があまりにも多くを、媒体とする言語に負うジャンルである以上私のもどかしさが無用のものとは思わない。

しかしツァラの詩は翻訳によって葬られる程に共約不可能ではな い。翻訳を通じてもなおその本質は消え去ることなく光り輝いている。そのような思い、それが断じて夢想ではないのだと私は抱く。

 ツァラの一つの到達点をシュルレアリスム期の『近似的人間』に認めることは許されよう。どの作品もケイオティックな言葉の噴出のように現れる。そして字義通りには不可解な文しか産まぬ言葉の群れが、やがては分解不可能なあるイメージを読者に経験させるのである。ツァラの詩はいかなる語も文脈によって理解されるという文脈原理を適応することができない。語による構成原理のみが支配し、それゆえ語のもつ意味自身が彼の詩において姿を表す。文脈から寸断され、解放された語は詩人のリリックな声にあわせて諸々の色彩を発揮させながらそこに秩序を綾なしていく。原理に即した歌ではなく原理を形成する歌である。

 文としては無意味だが、それゆえに諸々の語の意味が単独に迫って来る。こうした詩を可能にしたのがダダだったのであろう。ダダイズムというひとつの芸術運動が芸術史においていかに位置付けられるべきかは私の問題ではない。文脈を消去せしめたダダ期の詩編、コラージュは、単なる無秩序というよりも語の潜在的な正体を白日の下に連れ出しているのではないのか。ツァラはダダを通ったからこそ語の意味を極めて先鋭な姿に、こういってよければ形相を剥き出しにできたのである。

 ツァラの言語的光彩は時に攻撃的でまた感傷的であり、暗い不安の影と灯を持っている。だが何よりもツァラの詩はいかなる原子の分割も拒むほど定まらぬ混沌でありながら、そうしたうねりから明晰なイメージ、あたかも一つの概念が幻視される、そうした経験を可能にする言語である。

そこには光り輝く言語の自律がある。言語は使い手を裏切り、その支配を断ち切る。言語は道具から存在者へ展開する。そうした束の間の幻影をツァラは作り出すのだと私は思っている。

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