『ブルー』/デレク・ジャーマンの眼差し
2004年5月3日 映画
DVD ビデオメーカー 2000/05/25 ¥3,990
この作品はデレク・ジャーマンの一人称映画である。
一人称とはすなわち眼差しが一つということである。75分間の「青のさざなみ」はただ一つの眼差しのみが存在することの証であろう。カメラは観客の欲望を代替して情報を提供することもなければ、人物xからyへの眼差しの転換も起こらず、常に固定した唯一の眼差しとして鑑賞者に現れる。しかもその眼差しは盲目の眼差しである。一面の青はさながら目を閉じた時に「見える」瞼の裏側のようであり、具象的イメージの知覚を不可能にしている。またそれゆえにこのイメージはもっとも抽象的な一人称に至ってもいる。いわゆる「私」はほかならぬこの自分を指すとともに万人をも指示するからだ。すなわちこのイメージは具象性によって限定されることのない抽象性そのものであり、開かれたイメージの典型である。
しかしながらそれは同時にジャーマンの眼差しとして現れる。彼の散文とサイモン・ターナーによる彼のための音楽がその文脈を差し出している。ジャーマンは病を語り自身を語る。盲目の眼差しは、彼が侵された見えざる病エイズへの抗いえぬ憂鬱な眼差しである。愛の思い出もゲイとしての自負もかの病に侵されてしまった眼差しである。なぜなら、青の侵食が病の不可視によるのなら、この外延の侵食によって一切の想起ないし知覚が挫折の運命をたどるからだ。あらゆる具象的なイメージは病の不可視性を前に屈してしまう。
ここにおいてジャーマンの意識はどこまでもエイズへ向かわざるを得ない。そのことは永遠にも思われる青が語っている。この巧みにして痛切な構成「青のさざなみ」が彼の視界から晴れたのは、おそらく死の瞬間であったろう。
この作品を観ることはまさしく亡きジャーマンの眼差しになることだ。デレク・ジャーマンはオープニングで「彼」から「私」になり、エンド・クレジットとともに「私」から「彼」になるのである。
この作品はデレク・ジャーマンの一人称映画である。
一人称とはすなわち眼差しが一つということである。75分間の「青のさざなみ」はただ一つの眼差しのみが存在することの証であろう。カメラは観客の欲望を代替して情報を提供することもなければ、人物xからyへの眼差しの転換も起こらず、常に固定した唯一の眼差しとして鑑賞者に現れる。しかもその眼差しは盲目の眼差しである。一面の青はさながら目を閉じた時に「見える」瞼の裏側のようであり、具象的イメージの知覚を不可能にしている。またそれゆえにこのイメージはもっとも抽象的な一人称に至ってもいる。いわゆる「私」はほかならぬこの自分を指すとともに万人をも指示するからだ。すなわちこのイメージは具象性によって限定されることのない抽象性そのものであり、開かれたイメージの典型である。
しかしながらそれは同時にジャーマンの眼差しとして現れる。彼の散文とサイモン・ターナーによる彼のための音楽がその文脈を差し出している。ジャーマンは病を語り自身を語る。盲目の眼差しは、彼が侵された見えざる病エイズへの抗いえぬ憂鬱な眼差しである。愛の思い出もゲイとしての自負もかの病に侵されてしまった眼差しである。なぜなら、青の侵食が病の不可視によるのなら、この外延の侵食によって一切の想起ないし知覚が挫折の運命をたどるからだ。あらゆる具象的なイメージは病の不可視性を前に屈してしまう。
ここにおいてジャーマンの意識はどこまでもエイズへ向かわざるを得ない。そのことは永遠にも思われる青が語っている。この巧みにして痛切な構成「青のさざなみ」が彼の視界から晴れたのは、おそらく死の瞬間であったろう。
この作品を観ることはまさしく亡きジャーマンの眼差しになることだ。デレク・ジャーマンはオープニングで「彼」から「私」になり、エンド・クレジットとともに「私」から「彼」になるのである。