散文『同情する男』
2006年5月19日 彼は同情深い人間だったがあまりにも度を超していたので僕には煙たい男だった。この記憶の限りでは、ユニオンジャックをシェイクスピリアンの喫煙室に飾り付けるほど彼は共感能力にかけてずば抜けていた。級友たちのなかで彼ほど軽やかに頭を下げる術を心得、教師という教師にその労苦をいたわってやる者はいなかった。さもなければわれらがクラスの黒板消しは白と黄色の粉末に薄汚れ、本来の姿を失っていただろう。教室の片隅に追いやられた蛙の幼生たちが照りつける日光から連休を生き延び、かつまたしかるべき手足を現実のものとしたことも全て彼の世話によるものだった。午後にもなれば教室に差し込む日光は苛烈さを増したのだった。
僕にはコーヒーが不要だった。それでも彼は砂糖とクリーム付きで僕にコーヒーを提供しようとした。しかも授業中に。僕はその申し出を退けて板書に専念してしまった。彼がどんな表情をしたのか僕はそのとき知ろうとはしなかった。残念ながら、彼と僕との接触はただそれ一度きりだった。
それでも彼は実に同情深い人間だった。開かれた窓を前にお辞儀をし、掃除のできる男だった。靴をはいたままでも床を汚すことのない男だった。アイロンがけも抜群だった。子供の仕立てたぼろ布も、彼の手にかかれば一本のしわとてよらず滑らかな衣服に回復するのだった。
残念なのは彼が自らにその同情を向けなかったことだ。彼は自分に目を向け衣服をととのえることをしなかった。給食の和を乱さぬためをのぞいてはものも食べたことがなかったに相違ない。振り向いてコーヒーを差し出した彼のまなざしを僕はいつまでとどめておけるだろうか。記憶の波がそれをさらってしまうのは残念な事だ。彼は着物をもたず寒さに震えていた。それでも四則計算に精を出した。彼は飢え渇いていた。それでも教室掃除のぞうきんがけを懸命にこなしたものだった。ノートを忘れれば貸してやり、寒いときにはストーブをたき、スピーカーの調子にさえも気を配っていた。なのに彼は消えてしまった。身分もそのままだし住んでいる家もそのままだ。オフィーリアを知ったままだし、骨張った指についたペンだこもそのままだ、しかし彼は消えてしまった。もうコーヒーの香りを嗅ぐ事も、ユニオンジャックのスニーカーを目にする事もないだろう。なぜなら彼は消えてしまった。
僕は記憶を頼らない。コーヒーを注文し、口も付けずに逃げ出す客もいた。それでも彼は苦い顔に同情をこめていた。僕は聾であることを疎ましく思ったことはない。だが彼の声を耳にできなかったのは悲しいことだ。もはや彼は消えてしまった。消えてしまった彼の机で、いつかコーヒーを飲めるようになりたいものだ。
僕にはコーヒーが不要だった。それでも彼は砂糖とクリーム付きで僕にコーヒーを提供しようとした。しかも授業中に。僕はその申し出を退けて板書に専念してしまった。彼がどんな表情をしたのか僕はそのとき知ろうとはしなかった。残念ながら、彼と僕との接触はただそれ一度きりだった。
それでも彼は実に同情深い人間だった。開かれた窓を前にお辞儀をし、掃除のできる男だった。靴をはいたままでも床を汚すことのない男だった。アイロンがけも抜群だった。子供の仕立てたぼろ布も、彼の手にかかれば一本のしわとてよらず滑らかな衣服に回復するのだった。
残念なのは彼が自らにその同情を向けなかったことだ。彼は自分に目を向け衣服をととのえることをしなかった。給食の和を乱さぬためをのぞいてはものも食べたことがなかったに相違ない。振り向いてコーヒーを差し出した彼のまなざしを僕はいつまでとどめておけるだろうか。記憶の波がそれをさらってしまうのは残念な事だ。彼は着物をもたず寒さに震えていた。それでも四則計算に精を出した。彼は飢え渇いていた。それでも教室掃除のぞうきんがけを懸命にこなしたものだった。ノートを忘れれば貸してやり、寒いときにはストーブをたき、スピーカーの調子にさえも気を配っていた。なのに彼は消えてしまった。身分もそのままだし住んでいる家もそのままだ。オフィーリアを知ったままだし、骨張った指についたペンだこもそのままだ、しかし彼は消えてしまった。もうコーヒーの香りを嗅ぐ事も、ユニオンジャックのスニーカーを目にする事もないだろう。なぜなら彼は消えてしまった。
僕は記憶を頼らない。コーヒーを注文し、口も付けずに逃げ出す客もいた。それでも彼は苦い顔に同情をこめていた。僕は聾であることを疎ましく思ったことはない。だが彼の声を耳にできなかったのは悲しいことだ。もはや彼は消えてしまった。消えてしまった彼の机で、いつかコーヒーを飲めるようになりたいものだ。
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