ISBN:4003251148 文庫 渡辺 守章 岩波書店 1993/02 ¥798

 よりによってラシーヌの感想文なんぞ書かんとしている自分に一抹のやましさを覚えざるをえないのだがそのわけはこのいかにもおフランスな悲劇がどうにもこうにも馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいと一方で思っていたりするし現にそう思っているからである。横恋慕のもつれで四つ死体が出る始末の『アンドロマック』に、やっぱり痴情のもつれでしかも近親相姦の香りがげに漂うばかりの『フェードル』は義理の息子に恋したヒロインが言いよったところ当然拒絶されるわけで、旦那に露見したらどうしようかとあわてふたいていると侍女が勝手にご子息が奥方様を手篭めになさろうとなどといいくさる、とすれば旦那としては立腹するので息子を追放してしまうのだが云々。なんというかこう、これだけ書くだけだとやっぱりしらけるなあとあらためて思うのだが、どちらも恋情で身を滅ぼす、いやラシーヌのためにも身を滅ぼさんばかりな<宿命の>恋が主題に取り上げているといったほうが紳士的なのであろう。

 そもそもこのしらける感じがどこから来るかといえば恋というのは悲劇にもなることはなるけれど同時に喜劇の題材にもなる点に存しているのじゃなかろうか。人の恋路のすったもんだを皮肉って笑い飛ばしたり、愚かしいと思いながら暖かみのある視線でなりゆきみつめる野次馬根性が恋の喜劇の楽しみというものである。事実沙翁も『ロミオとジュリエット』『アントニーとクレオパトラ』をのぞけばもっぱら喜劇の主題に惚れた腫れたの事件どもを扱っているではないか。笑いの素材になるものを悲劇の形式で仕立てるとあっては涙しようと思えども笑いの余韻で口がひきつるというものだ。

 されどラシーヌはあくまで悲劇と来ている。悲劇たるからには主人公が死に至る。その死の原因が恋情である。フェードルは義理の息子イポリットに対する己が心情を恥ずべきものと知っていてそれを押しとどめんとあれこれ抗う、とこういうたぐいの葛藤は恐るべき予言の成就を避けんとするオイディプスに似ていないこともない。言うまでなくオイディプスの努力むなしく父親殺しと母子相姦は現実のものとなっていたのだが、これを外部からの侵入、非日常の襲撃とみてとるのはギリシャ悲劇おなじみの理解である。だからしてオイディプスの災いは彼の日々の行為、心情の結果などではなく、むしろそれらとは無関係に彼を襲い、平凡な生活をかき乱す異常な出来事として登場するのである。

 さてフェードルの恋の情念は、オイディプスにふりかかる運命同様、彼女に襲いかかる。彼女は無論己のふるまいや意志の結果として息子に恋慕したのではない。むしろそれを回避しようとさまざまな手だてを講じても回避しきれないものとして、その恋はフェードルを打ち砕く。ラシーヌにあって恋情はいかなる人為も無にしてしまう運命の侵入なのだ。運命を前にしてもフェードルは無益な抵抗をやめることがない。彼女は愛を語るや己のおぞましさを痛罵する。恋情と規範、運命と人為のはざまにあってフェードルの心はめまぐるしく変化し、どこまでも逃れられない結末を避けようと試みる。この姿がおそれとわれみを生じさせる理由であろう。しかしそればかりでなくふたつの情念の間で生じる葛藤によって、その心にきわめて激しい振幅を起こさせる方法はラシーヌ作品にしばしば見受けられるタイプの心理描写である。そしてラシーヌの見事さはその精緻な筆致をこそ筆頭にあげてよかろう。

 もしラシーヌに失笑を感ずる、つまり喜劇的なものとして受け入れるなら、フェードルの心情もまた喜劇を構成する要素である。喜劇的なるものが生じさせるのは滑稽味である。とすれば、フェードルの滑稽味は運命ならざるものをそうだと思いなしてしまう愚かさ故の滑稽味とでもいえようか。登場人物の名前は失念してしまったが、『ブリタニキュス』というネロの治下にあるローマを舞台にした悲劇の中で「(恋に抗えないなどというのは)少し抵抗を試みられただけですぐおやめになるからでは?人は恋をしようとしなければ、恋せずともいられるものです」とラシーヌは語らせている。恋を意欲しないなら、そして制しようとするならばそれ十分は可能なことである。こうした恋情の理解に立てば、フェードルもまたカタストロフを回避することができたのに、それを運命の名の下に呼び寄せたといえる。いわば自ら災いの芽を摘みそこねたに過ぎない。とはいえラシーヌは恋を運命とみなし、それによって作品を作り上げた。そこに仮になにかしらの滑稽さが生じるとすれば、それはラシーヌの作家のとして力量に起因するよりも、題材に対する読者観客の態度によることである。

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