三十の詩編;学術的なる唖
2004年11月15日 愚鈍の夜が永遠に明けることなくテレビジョンの膝に座って戯れんことを祈願しよう。新たな日の過酷な清廉はあまりにも速く回転し両目が口元にずり落ちてきたとは誰も信じまい。なぜならそれがイチョウ並木の影を背負う私の輝かしい苦役であったとしても不平等に整列した学部学部なるお歴々が手の込んだ正月料理程度にしか思し召さぬからだ。
どうか盲の夜の明けぬことをまた日の来らぬことを。繰り言を吹き込む愚鈍よ、嘆き歌に酔いしれるな。しかし理性は時代も個人も交え狭くるしい四畳半のアパートでその日暮らしをしているというが。今やイデア界は想像力が主権を握り感性が良心の門を務めている。芸術家よあなたがたは新たな時代の聖であり卑屈を抱く僧に代わって清貧、これをを自ら行い新たな時代の預言者としてためらいがちな神を追い出すや野の花を信念へと送り届ける。とはいえ理性が失ったのはただ地位の虚像だけであり彼らが住まうブラックボックスにおいてはただ関数の差異にすぎないのではないだろうか。
だが理性だけが夜を知っている。日をのぞむことなき頭蓋の夜を知っていて私はついぞ彼がノックを止めるのを聞いたことがない。扉を叩けども蠢く百足が人間の姿にもどることなどどうしてあるだろうか。しかし百足は人間だろうか--毛細血管の先の先まで充足される愚鈍の羊水をさなかで知りうるのは理性だけだ。詩人にとってその水は聖別のための必需品であり研ぎすまされた神経の切断で諸々の天才たちが凡庸なる先人の品々にどれだけ多くを負っているのか考える必要すらないのだ。
私は芸術家ではない。夜は明けるな。日がくれば再び怠慢な鐘が染み渡り唖者のひびわれた歌声に支配される夜が、全身に生い茂る黴の禍々しさを目にすることになるからだ。しかも第二の夜はかわることなく愚鈍を呼び覚まし共に新聞のインクに似た味のする食卓で忘却から改心を選ぶことになるからだ。
夜よ明けるな。私のしぐさは連関を欠いており極めて小さくあまりに欠けている。嘆きの歌が醜悪なのはおまえの足下に水仙が咲くからだ。夜よ明けるな日がのぼる。私は一本の針の上で舞踏しよう。
どうか盲の夜の明けぬことをまた日の来らぬことを。繰り言を吹き込む愚鈍よ、嘆き歌に酔いしれるな。しかし理性は時代も個人も交え狭くるしい四畳半のアパートでその日暮らしをしているというが。今やイデア界は想像力が主権を握り感性が良心の門を務めている。芸術家よあなたがたは新たな時代の聖であり卑屈を抱く僧に代わって清貧、これをを自ら行い新たな時代の預言者としてためらいがちな神を追い出すや野の花を信念へと送り届ける。とはいえ理性が失ったのはただ地位の虚像だけであり彼らが住まうブラックボックスにおいてはただ関数の差異にすぎないのではないだろうか。
だが理性だけが夜を知っている。日をのぞむことなき頭蓋の夜を知っていて私はついぞ彼がノックを止めるのを聞いたことがない。扉を叩けども蠢く百足が人間の姿にもどることなどどうしてあるだろうか。しかし百足は人間だろうか--毛細血管の先の先まで充足される愚鈍の羊水をさなかで知りうるのは理性だけだ。詩人にとってその水は聖別のための必需品であり研ぎすまされた神経の切断で諸々の天才たちが凡庸なる先人の品々にどれだけ多くを負っているのか考える必要すらないのだ。
私は芸術家ではない。夜は明けるな。日がくれば再び怠慢な鐘が染み渡り唖者のひびわれた歌声に支配される夜が、全身に生い茂る黴の禍々しさを目にすることになるからだ。しかも第二の夜はかわることなく愚鈍を呼び覚まし共に新聞のインクに似た味のする食卓で忘却から改心を選ぶことになるからだ。
夜よ明けるな。私のしぐさは連関を欠いており極めて小さくあまりに欠けている。嘆きの歌が醜悪なのはおまえの足下に水仙が咲くからだ。夜よ明けるな日がのぼる。私は一本の針の上で舞踏しよう。
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