ISBN:4783727317 単行本 大平 具彦 思潮社 1988/05 ¥3,990

[内容紹介]トリスタン・ツァラの主要な詩集10冊をダダ、シュルレアリスムを経て晩年に至るまでを納めた詩集。日本語で読めるツァラ詩集の中では現在最も網羅的である。

 ツァラは母語ルーマニア語ではなく作品のほぼ全てを第二言語のフランス語で残したという。それゆえ私には、翻訳で詩を読むことにまつわりつく不可知の思い、作品は私に開示されず日本語によって隔てられているという思いを感じざるを得ない。

ましてツァラはシンタックスを破壊する詩空間を形成した。大平氏によれば「異質」であるというツァラのフランス語をまさにそのように感じ取るためには「標準的」フランス語に熟達しなければ不可能だ。よしそれが作品へ向かう唯一の道ではないにせよ、詩があまりにも多くを、媒体とする言語に負うジャンルである以上私のもどかしさが無用のものとは思わない。

しかしツァラの詩は翻訳によって葬られる程に共約不可能ではな い。翻訳を通じてもなおその本質は消え去ることなく光り輝いている。そのような思い、それが断じて夢想ではないのだと私は抱く。

 ツァラの一つの到達点をシュルレアリスム期の『近似的人間』に認めることは許されよう。どの作品もケイオティックな言葉の噴出のように現れる。そして字義通りには不可解な文しか産まぬ言葉の群れが、やがては分解不可能なあるイメージを読者に経験させるのである。ツァラの詩はいかなる語も文脈によって理解されるという文脈原理を適応することができない。語による構成原理のみが支配し、それゆえ語のもつ意味自身が彼の詩において姿を表す。文脈から寸断され、解放された語は詩人のリリックな声にあわせて諸々の色彩を発揮させながらそこに秩序を綾なしていく。原理に即した歌ではなく原理を形成する歌である。

 文としては無意味だが、それゆえに諸々の語の意味が単独に迫って来る。こうした詩を可能にしたのがダダだったのであろう。ダダイズムというひとつの芸術運動が芸術史においていかに位置付けられるべきかは私の問題ではない。文脈を消去せしめたダダ期の詩編、コラージュは、単なる無秩序というよりも語の潜在的な正体を白日の下に連れ出しているのではないのか。ツァラはダダを通ったからこそ語の意味を極めて先鋭な姿に、こういってよければ形相を剥き出しにできたのである。

 ツァラの言語的光彩は時に攻撃的でまた感傷的であり、暗い不安の影と灯を持っている。だが何よりもツァラの詩はいかなる原子の分割も拒むほど定まらぬ混沌でありながら、そうしたうねりから明晰なイメージ、あたかも一つの概念が幻視される、そうした経験を可能にする言語である。

そこには光り輝く言語の自律がある。言語は使い手を裏切り、その支配を断ち切る。言語は道具から存在者へ展開する。そうした束の間の幻影をツァラは作り出すのだと私は思っている。

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